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ドラマの世界のことが、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもいませんでした

私は、リーダー的役割を担うことが多い半面、
どう行動していいかがわからない受動的なところがあって、
自分が何をしたいのか、明確な何かがない人間になっていると感じていました。

自己犠牲と利他や奉仕の区別がついておらず、
知らず知らずのうちに相手の感情や価値観に引きずられて生きてきた感覚もあります。

「うちはお百姓だから貧乏なんだ」と
辛抱することが美学の兼業農家の長女として、私は生まれました。

両親の
「1番上の子を厳しく育てておけば下の子はなんとかなる」
という責任感のもとに育ち、子どもの頃に叱られた記憶が沢山あります。

毎回ではありませんが、今の時代なら虐待と言われるような体罰を躾として受けていました。

「できて当たり前」
「お姉ちゃんなんだから我慢するのが当然」とされ、
できない私が悪いんだと思い、人から見たら
「しっかりした」大人びた子どもになっていたようです。

4つ下の妹の世話をすることが増え、その頃から、
本当は心に無理があっても、お姉ちゃんの役目と片付け、
自分の気持ちを感じるということを明確にはしていませんでした。

保育園や小学校では求められた通りに行動すると褒めてもらえることが嬉しくて、
勉強を含め型にはまった行動は得意になっていきます。

与えられた課題はきっちりこなす、いわゆる「いい子」に自然となっていきました。

リーダー的なポジションにいることが多くなり、私の中では
それが当たり前のようになっていました。

コミュニケーション能力が未熟なのに目立つためか、
小学生の間にいじめの対象となったことが何度かありました。

最初はからかわれていただけかもしれません。

ですが、
私は相手にどう対応したら良いかがわからず、小学3年生の時に初めて
「自殺したらどうなるか」と考え、家族に迷惑がかかることを想像し思い留まる経験をしました。


中学1年生の冬に父の不倫が発覚。

ドラマの世界のことが、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもいませんでした。
父のいない家に居続ける必要はないと判断した母に、家を出ることを相談された私は、
母が好きなようにしたらいい」と伝え、2人で泣きました。

これが、「私はどうしたいのか」と考えることを封印するきっかけになったと感じています。


両親の話し合いで、離婚は妹が高校を卒業した後と決まり、
父がいたりいなかったりする生活となりました。

職種は変わらないものの、勤め先を転々としていた父に対し、母は
准看護師として外でも毎日一生懸命働き、家計のやり繰りや
家事はもちろん、私たち子どものことや近所付き合いも全て一人でやっていました。

父への愚痴や「どうせ私は掃除・洗濯・ 飯炊き女だから」という
母の口癖を聴く度に、私は母を助けたいと思う半面、
母のようにはなりたくない、と心の底では思っていました。


そんな中、母から教わったことがいくつかあります。

狭い田舎で暮らしていく上で「父親があんなだから仕方がない」と、
私たち子どもの評価を世間からはされてしまう可能性。

彼氏ができた時には
「悪いことをしているわけじゃないんだから、堂々としていなさい」という、胸の張り方。

また、
「自分さえ良ければそれでいいのか?」
「人の痛みがわかる人間になりなさい」
と、繰り返し言われ続けていました。

母には父を立てるところもありました。

父を否定したら自分の存在を否定することになると感じた私は、
父の考え方を全て受け入れることはできないけど、
「この両親の子どもで良かった」と口にするようになっていました。

世間の評価が気になりながらも、中学高校と人並に学生生活を送り、かけがえのない思い出が沢山できました。

 

 

母に言われた通りに生き、自分が嫌になっていました

進路を決めなければならなくなった時
「手に職をつけなさい」と母に言われ、進路は看護師を目指すことに決めました。

佐渡から一度は離れてみることを母に勧められ、行きたい学校ではなく、
私でも行ける関東の学校を調べ、我が家の家計の負担にならない専門学校を選びました。

実習が苦手な学生生活を過ごしましたが、無事試験に合格し、
看護師としてのキャリアを積みリーダー業務も一通りできるようになっていきました。

「人の痛みがわかる」ことを目指し、患者様の身体的精神的社会的状態に共感することに努め、それが奉仕の心につながっていたと思います。

休憩時間を削り、超過勤務の報告をしたりしなかったりしながら、
患者様の本音を引き出すための関わりを続けました。

そんな中、テレビでは年金問題がとりざたされ、
自分の老後の生活に経済的な不安がぼんやりとあることに気付きます。


患者様に共感することを大切にし、看護という仕事に誇りを持っていたので、
どんなに忙しくても患者様の前では「看護師としての私」を演じていました。

仕事はそんなものだと、重い鎧をまとっていることに気付かずに働いていたんです。

ちゃんと心は疲れていて、貯金しようと思っても仕事のストレスを理由に使ってしまう状況で、
まだ20代だから過酷な現場でもこなせているけど、このまま看護師を続けるのか?と疑問が浮かびました。

職業を変えるにも
今から知識を得るには学校に入り直す必要があるとしか考えられず、
先立つものがない私には無理とすぐに諦め、私のやりたいことは何かがわからなくなっていく感覚がありました。


6年目に中間管理職を拝命しコーチングを学ぶ機会があり、人材育成に興味を持ちました。
しかし、管理業務と患者様との関わりとのバランスに葛藤が生まれ、当時
既に離婚し1人暮らしをしていた母が気になるようになっていて、実家へ帰りました。


それから今の夫に出会い、地元の病院を退職した後、
妊娠、結婚、出産と経験したかったことが次々と私の元へやって来ました。

しかし、幸せなはずの妊娠が私にとっての試練の始まりとなったんです。

妊娠していながら看護師として再就職をするには、私自身への負担就職先にかける迷惑が大きいと判断し
専業主婦になり、産前産後のことも踏まえ、夫には私の実家で一緒に暮らしてもらうことにしました。

このことを決めるにあたり、
本当は実家から出て夫との2人暮らしをしたかった私ですが、
意見を押し通すには初めてのことへの不安で自信がなく、母の意見に従う形になりました。

大好きな夫と一緒に生活できるようになり幸せの絶頂と感じていた時間はあっという間で、
実家の台所に母と私が並ぶことの難しさを覚えたり、嫁の立場で
夫の実家に暮らしていたらそんな態度でいてはならないと母に叱責されたり、いくつになるまで母に叱られるのかと、自分が嫌になっていました。

 

 

過去最大の恐怖を感じ、初めて「死にたくない」と思いました

それでも息子は成長し、2歳になって保育園に通い始め、
そろそろ仕事を探そうと思っていた時に生命保険のセールスに誘われます。

子どもが小さいうちのメリットを感じ、やってみることにしました。

社会復帰し、家族以外の人と関わることの楽しさを感じると同時に、
家族のために当然とされる主婦の大変さを痛感しました。

また、人脈を拡げるためにと声をかけていただき、青年会議所に所属しました。

日中は仕事をして、夜、青年会議所の活動をするには、家族の協力がなければできないことです。

息子と一緒に夕食を食べ、お風呂に入り、寝かしつけてくれる夫に
感謝できるようにもなりつつありました。

しかし、
私がどうしたいのかではなく、
お客様がどうしたいかを優先させるため
子どものための時間を削らざるを得ず、
結局お金を稼ぐために我慢し続ける状態になっていきます。

徐々に、経済的に自立できなくなり保険会社を退職しました。

次の職場は高齢者施設を選びましたが、看護師に復帰し
やっぱり私は看護師の仕事が好きだと感じ、充実した毎日を送るようになりました。

息子も小学生になり、私は仕事に没頭することができました。
ですが、また自分を犠牲にするようになっていきます。

穏便に済ませようとすることで、同僚に負担をかけまいと必死でした。

自らの意思で自分を追い詰めるような状況に置くことは、一つの弱さだそうです。
私は自分の弱さに、全く気付いていませんでした。
人の命を預かる仕事だから、大変で当然と、疑う余地もありませんでした。


数年経つと、
20年前から感じている老後への不安は現実味をおびだし、
さらに
時代の流れでいつかは看護師という職もAIに取って代わられるとささやかれ始め、
「手に職をつけろ」と言われてなった看護師という職業が
いつまで続けられるかを、また考えるようになっていました。

そして、何の前触れもなくコロナ禍に突入したんです。

当時まだよくわからない見えない敵に、看護師になってから
過去最大の恐怖を感じ、自分の死を意識し、その時初めて

「死にたくない」と思いました。

コロナウイルスの情報から離れる目的もあって
YouTubeを見ることが日課になっていき、
インフルエンサーと呼ばれる方々から学ぶようになっていきました。

 

 

自分自身の幸せを後回しにする癖がついていたことに気付きました

看護師という職業自体と、それを選択した私にも
自信を失い始め、お金を稼ぐために、ネットワークビジネスを始めてみたり、
snsで発信をしてみたりしましたが、徐々に何のためにやっているかがわからなくなっていきます

起業を視野に入れるようになったものの、自分の商品がないことがネックになって行動が止まってしまいました。

そこで、藁にもすがる思いで
叶理恵さんの「売れるヒット商品の作り方講座」を受講し、
それをきっかけに、LMCの存在を知りました。

無料のカードセッションに申し込み、
初めてお会いしたとは思えない講師の方に、
自分の想いを自然と吐露し勝手に涙が流れる体験をしました。

そして「お母さん法典」という言葉にも出会います。

私が今まで自分の価値観だと思っていたことは、
母の価値観が大きく影響しているという事実を言語化してくれているものでした。

それから、私の現在地が起業初期段階にあって、
情熱の源泉を掘り当て、ライフミッションを言語化することが最優先課題と学び、
即、トゥインクル養成講座の受講を決意しました。

安心安全ポジティブな場で、今までの
私が言語化できていなかった感情、気持ちを言葉にすることができ、
母の様にはなりたくないと思っていた私なのに、
自分自身の幸せを後回しにする癖がついていたことに気付きました。

母の価値観を私の価値観と勘違いし、危うく
夫や息子の価値観にも囚われてしまいかねない状況だったことや、
既にある幸せに気付いていなかったことも、直視することになりました。

日報でアウトプットを続け、同期の仲間と
メンタリングカードのセッションを重ねるうちに、

どんな自分にもOKを出せる
自分の人生に価値や意義を見出せる
私もそうなっていいんだ

と許可が出せるようになっていると感じています。


講座の中で、日本の自殺率やうつ、虐待、いじめが右肩上がりであることを改めて学びました。

今までは虐待やうつが増える日本の現状がどこか人ごとで、
でもそれを考えるだけで怖くて、実際身の回りにも起きているのに、
私には何もできないと思い込んでいたことに気付きました。

子どもの頃に自殺を考えた経験があるからこそ、
安心安全ポジティブな場を広げて、そんな子どもを減らしたいと思っています。

そのためには、

大人が笑顔で仕事をしていることが大前提です。

自分が好きだと思えること、心地よいと感じることを自分の意思で選択し、
自分の感情も自覚して、外側の環境や誰かのせいにはしない、不安定な時代も生き抜ける、そんな大人を増やしたいです。

LMCの仲間と一緒なら、私の強みを発揮して、
そんな素敵な世の中に変えていける!と私の思い込みを払拭することができました。


 私のライフミッションは

『自分の好きな道を、自分の意思で選んで、自分で歩める人を増やしたい』です。

LMCのビジョンにあるように、人それぞれの魂の輝きによって明るく照らされる世の中を、私も実現したいです。

だから私もライフミッションサポーターとして、
カードセッションやICC、トゥインクル養成講座を開講できるように学び続けます。

また、精神的な関わりをしたいので、
潜在意識やタロットの学びも深め、
生きづらさを感じている方や、自信がない方お母さん法典に縛られている方の役に立ちたいと思っています。


誰かが人生を選び直したり、生きづらさから解放されるため、
現在地と目的地を確認し自ら進んでいくプロセスに寄り添い、応援していきます。

私をおすすめする3つの理由

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