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私はこれまで母親との関係に疑問を持って生きてきました。

なぜか母を好きになれず、
他人に言われても何とも思わない言葉でも母に言われるとイライラしたり、
何を言われなくとも母と一緒にいるだけでイライラする毎日…

その理由が分からず、ずっと
”自制心のない自分”
”親を大切に思えない自分”
を「ダメ」だと思ってきました。

母は女手ひとつで私と妹を育てながら自宅でエステサロンをひらいていたため、
周囲からはよく「お母さん凄いね」と言われてきましたが、私の目にはそうは映っていなかったのです。

 

涙の訳・・・

我が家は、私が5歳のときに両親が離婚しました。
当時住んでいた川崎市から母の実家がある名古屋へ引っ越して来たのですが、その時に今でも忘れられない体験をします。

新幹線ホームのエスカレーターの上で、母の泣いている姿が目につきました。
その様子を見て、もう父とは一緒に暮らせないことを悟った私は、
大好きな父と離れてしまうこと、家族がバラバラになってしまうことが悲しくなり、母と一緒に涙を流しました。

その時です。母が私にかけた言葉は、
「ママのために泣いてくれてるの?」でした。

この言葉に、
「ママのために泣いてるわけじゃない」と違和感を感じた私は、
悲しい気持ちがスーッと引いて、気を遣って「うん」と答えたのを覚えています。


名古屋に来てからというもの、母はとにかく言動が子どもっぽく、
私はそんな子どもっぽい母のことをずっと恥ずかしいと思っていました。

思いどおりにならないとすぐに機嫌を損ねる母が面倒で、
何か言われるたびに「どうせまた機嫌を損ねるだけだ」と自分の言いたいことを我慢して、
仕方なく母の言うことを聞いていました。

そんな毎日を送るうちに言葉を飲み込むことが癖になった私は、
常に母の顔色ばかり伺い、自分の気持ちが分からない子どもになっていきました。

 

窮屈な生活

名古屋に来て7年後、私が12歳の時に、母が自営のエステサロンをオープンしました。

家の半分がサロン、もう半分が生活スペースになっていたのですが、
サロン側にはトイレやお風呂があってキレイな白い壁に改装されたのに、
自宅側にはキッチンと10畳ほどのスペースしかなく、
そこに家族の私物、家の物、サロンの事務書類などがぎゅうぎゅうに詰め込まれている状態でした。

自宅側にはトイレやお風呂が無いため好きなタイミングで使えないというストレスに加えて、
エステサロンなので音を立ててはいけない、匂いを出してはいけないというルールも課せられました。

話し声もダメ、足音もダメ、テレビの音もダメ、ゲーム・マンガは禁止、
キッチンがあるからせめて料理がしたいと思っても、匂いも音も出るから出来ない…と、かなり窮屈な生活を送っていました。

一方、近所に祖父母の家があったため、トイレ、風呂、食事はそこで済ませられたのですが、
祖父母は仲が悪く頻繁に喧嘩していたので、それを毎日見なければならない状況も嫌で仕方ありませんでした。

安らぐ場所のない生活環境にかなりストレスを抱えていた私ですが、
「どうせ子どもが何を言っても変わらない」という思いから、自分の気持ちを飲み込んでただひたすら我慢していました。

こういう時にいつも思い浮かぶのは父の顔で、
この頃からだんだん
「どうして父が引き取ってくれなかったんだろう」
「サラリーマンの父と一緒ならこんな生活送らずに済んだのに」と思い始めます。


父とは年に4回ほど会えていたのですが、
別れ際は必ず大号泣、街中で他の家族が仲良さそうにしている姿を見ると胸が苦しくて目をそらしたり、
神社やお墓など手を合わせるところに行けば必ず「また家族4人で暮らせますように」と真剣にお願いをするほどでした。

でもこんな思いも「引越しに親の転職…どれも現実的に無理だろう」と諦め、自分の気持ちにフタをしていました

 

自立への一歩

こういった家庭環境に対するイライラを我慢し続けた私は、
溜まったストレスを一番近くにいた妹にぶつけてしまいます。

妹は幼い頃からどこへ行くにも私の後ろをついてまわるような子で、
何でも私の真似をして、今思うと本当に可愛い妹でした。

しかし、自分のことでいっぱいいっぱいだった私は、
そんな妹を可愛いと思えず、むしろうとましく感じ、
ある時は叩いたり蹴ったりと、たくさん怖い思いをさせてしまいました。
そして、そんな自分にものすごく自己嫌悪していました。


このような経験から、「将来自分の子どもには絶対にこんな思いをさせたくない」と、
気づけば母のことを反面教師として見ていました。

とにかく母のもとから離れたかった私は、
大学生になると、貯金したアルバイト代で、母に内緒で賃貸契約し、一人暮らしを始めました。


ちょうどその頃、友人の誘いでサークルにも入りました。
初めて自分の素を出せる仲間たちと出会えたこと、そんな仲間たちと楽しい思い出をたくさん作れたこと、
そして一人暮らしで自分の時間を確保できたことによって、かなり心が満たされていきました

楽しい大学生活を終え、就活も、公務員という安定した立場を手に入れることができました。
さらに、当時お付き合いしていた職場の先輩との結婚も決まり、いわゆる「幸せ」を手に入れることができました。
そして、母とは正反対の道を歩めていることに、非常にホッとしていました。

 

試練の連続

しかし、いざ働き始めると、直属の上司からキツく当たられる毎日が続きました。
言いたいことが言えない性格でしたので、ただひたすらに我慢し続けた私は、
心も体も疲れ切ってしまい、あるとき適応障害の診断を受けました。

職場に通うことが困難な状況でしたが、公務員を辞めたくない(母のようにはなりたくない)という思いから、葛藤し、
休職と復職を何度か繰り返した末、最後はどうにも体調が戻らず、退職を決意。


しばらくして働く意欲が戻ってきたころ、転職した先はとても人間関係が良く、いつもみんなが笑っているような職場でした。
「ここでならまた頑張れる!」と期待に胸を膨らませていた矢先のこと。


今度は旦那さんの浮気が発覚。


この時私は「裏切られた」という怒りや悲しみに加えて、
「夫の期待に応えられなかった」という強い自責の念にかられました。

「私の何がいけなかったのか」
「どうしたらまた好きになってくれるだろうか」
と夫の顔色を伺い、どんなに冷たい態度を取られてもじっと耐えていました。


この時もまた、母のようにはなりたくないという思いから、何としても離婚だけは避けたかったのです。

しかし何度話し合いを重ねても二人の関係は修復せず、2度目の浮気が発覚したとき、離婚を決意しました。


 

新しい環境へ

この頃の私は、幼少期から家庭環境に恵まれず、
安定した仕事を手放し、パートナーをも手放し、何をやっても上手くいかない自分の人生に落胆していました。

しかし一方で、人生をやり直すとしたら今じゃないか?と思っている自分もいました。

そんなタイミングでライフミッションコーチ協会のお話を聞いた私は、
「過去を癒すと情熱の源泉が湧いてくる」という言葉に惹かれて、トゥインクルスター養成講座への参加を決意しました。

この場に参加する前は我慢することが当たり前すぎて、
自分が我慢していることにも気づかず、
「なぜかイライラする自分」
「なぜか情緒不安定な自分」
を常に責めていた私ですが、
トゥインクルスター養成講座で自分の過去を振り返り、
イライラの原因が紐解けたおかげで、今ではとても心穏やかに過ごせるようになりました。


また、安心・安全・ポジティブな空間で母に対する素直な(つまりネガティブな)感情を吐き出すことができたおかげで、
ずっとネックになっていた感情を手放すこともできました。

本当の自分を押し殺していた私だからこそ、
いま自分の本音に気が付いて、自分の言葉で伝えて、
自分らしく生きられるようになったことが、とても幸せだと感じています。

なので私は、
「自分の人生の舵(カジ)を取り戻す人を増やす」
ことをライフミッションとし、

以前の私のように本当の自分を発揮出来ず生きづらいと感じている人たちに、
「もっとあなたらしく、肩の力を抜いて、楽に生きられる方法があるんだよ」
ということを伝えていきたいと思っています。

以上が私のライフミッションストーリーです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


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