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戦場

私の実家は私にとって「戦場」でした。

私は4世代同居の家庭で長女として産まれました。
祖母と母の折り合いが悪いこと、両親の不仲など家庭内には、たくさんの問題がありました。
そして、それは今でも続き、家族と自分と向き合っています。

私が小学校低学年の頃に祖母と別居することになりました。
その後、小学校高学年くらいに両親は家を建てることにしました。

家が完成して土日に遊びに行きたいと祖母にいわれた時は、
祖母の家ではマイナスの答えが母から返ってくるだろうと思い自宅に電話できませんでした。

近くのデパートへ祖母と行った時に、
祖母に「友達のところに電話してくる」と嘘をついて、
泣いて震えながら公衆電話で自宅の母に電話をしたのを覚えています。

祖母に聞かれてはいけない、傷つけてはいけないと思っていました。

母親に電話したら
「なんで遊びに行きたいとか、そんなことをいうの私が出ていけばいいんでしょ?」
と言われてしまいました。

泣いて頼みましたが無駄でした。

祖母には「今日は忙しいから無理だって」と
何事もなかったような顔をして返答しました。

私が動揺していることや自分が傷ついていることを知られてはいけない。
知られたら相手が傷つくと思ってひたすら感情に蓋をしていました。

気を遣いすぎて神経をすり減らしていたことが、その時にはわからなかった。



我慢していたらいつの間にか話さないし、
表情が乏しく無感情、無感動な子供に育ってしまった。

祖母も母も父も
相手に対する不満を言わないために私は相手の本音が見えない。
何が起こっているのかわからなかった。
でも、察してくれといわれても小学生にはできないことでした。

大人にできないことを無理にしていたから、早く大人になりたかった。
男に産まれたかった。

そうすれば、もっと頑張れるし期待に応えられると思っていた。

女だから弱い子供だからダメなんだと思っていたけれど、
勉強ができるわけでもなく、運動ができるわけでもなく
何か取り柄があるわけでもなかったから自己肯定感はものすごく低かった。


学校や社会では「皆と同じが普通」を求められていたので、
自分ができることは、人もできることだと思い込んでいた。
「人とちがうことはいけないこと」と思い込まされていた。



小学校でアトピー性皮膚炎などが原因で虐めに遭ったことと、
家庭内のことで鬱状態になってしまい中学校3年間は不登校でした。

毎日眠くて眠くて堪らず、食事、風呂、トイレ以外は、ほとんど寝て過ごしました。

眠ることで体と心をリセットできたこと、
この時期に年の離れた弟ができたこともあって、
少しずつ立ち直ることができるようになってきました。


「普通」って何

大学進学の費用のためと学業不振のため定時制高校に入学しました。
「いいだよ。いいだよ。やってみればいいだよ」が口癖の年配の男性が担任でした。

「何をやってもいいだよ。失敗したっていいだよ」と言われても
何をやったらいいのか、
何がやりたいのか、
感情に蓋をしていた私にはわかりませんでした。

また、妻子持ちの年上の同級生や8人も兄弟がいる後輩など、
年齢も家庭の事情も様々な生徒が在籍していて、それがここの「普通」でした。

お互いに過去や家庭の事情を詮索することもなく、
今を生きることに一生懸命で、他人のことを気にしている余裕がない状態だったので私は非常に楽でした。

バイトをしてお金も少し自由に使えて、
貯金もできるようになったので働くことの楽しさがわかって日々が充実してきました。
校則はありましたが、大抵のことは受け入れてくれました。

高校では文化祭や部活、生徒会活動を通して、
・失敗しても何度でもトライすることができたこと
・活動の場所も内容も提示されるけれど、トライするかしないかは私の自由だったこと
・型はあるけれど創意工夫ができたこと
・そのことに100%責任を取る必要がないこと
・そもそも子供には責任がとれないこと
を学びました。

学校は安心・安全・ポジティブな場所でした。

担任も学校も私を否定しなかった。
できないことはできないとはっきり言ってくれて、
本音がわかったことも安心でした。

20代の頃は怒りをずっと貯めていたので、
突然爆発し両親や周囲に攻撃を繰り返すこともあった。

両親に苦しい辛いと訴えても
「いまさら」「お前もわるいところがある」と拒否されていた。

どうしてこんなに両親と嚙み合わないのかも不思議だった。



毎日毎日何かに怒っていた、他人のことも批判していたし、馬鹿にして嘲笑っていた。
「どうして私だけアトピー性皮膚炎なの?」
「何あの人!こんなこともできないの?馬鹿じゃないの?」と。



大人になって妹と小学生の夏休みの宿題について話をしていた時に
妹が
「そういえば夏休みの宿題って、宿題がでていたことも知らなかったんだよね」と話をされた。

私が
「え?しおりとかテキストとか学校から配布されたでしょう?」と聞くと

妹は
「全く覚えてなくて9月に学校へ行った時に先生に提出しなさいって言われて、
えー!宿題ってあったの?って思った。
友達はわかっててさらにびっくりしたんだよね」と言われて驚いた。

「親に言われなかったの?」「言われた記憶がない」とも。


そのことを母親に話をしたら
「勉強とか料理とか、身の回りのことは、
親が教えなくてもできるようになるもんだと思っていた。
子育てでそこは失敗したと思う」と言われて愕然とした。


そういえば、小学生の時にボロボロの戸建てのアパートに住んでいたのに
突然我が家に母はグランドピアノを買ってくれたことを思い出した。

買ってくれただけで練習に付き合ってくれるわけでも、
褒めてくれるわけでもなく、
鬱傾向があり情緒が安定しない私は練習もしなかった。

顔も洗わない、髪もぼさぼさで学校へ行く状態は無視なのに、
100万単位のピアノを買い与えることが不思議だった。

親に
「大学に進学もできて、自分の好きな仕事ができて、
どうしてこんなに恵まれているのに、全員、情緒不安定になってしまうのかわからない」と言われた。

その時は、
「はあ?おかしくなる要素がたっぷりの家庭ですけど?」
「いつも親は、ずれている。私の欲しいものはくれない」と思っていた。

 

変われるチャンス

主人と出会ったのは30代後半でした。
その時期に祖母が亡くなり、
不謹慎ですがいろいろなことで母と祖母に挟まれていた私に取って、大きなチャンスでした。

小学校でアトピー性皮膚炎などが原因で虐めに遭ったこともあり、
外見的なコンプレックスもありました。

私は女性としての価値が私にないと思っていました。

小学生の時から結婚も恋愛も諦めていました。

そんな私でもお付き合いした男性はいましたが、
自分自身も相手も信じられなかったり、
依存的な関係になってしまったり自分とも相手とも向き合うことが怖い、
苦しい状況が続いてきていました。

また、「戦場」の我が家のゴタゴタに相手や相手の家族を巻き込みたくない、
この状況を知られることも恥ずかしいと感じていました。

ただ、できるなら
「普通」の人が「普通」にできる結婚をしてみたい。
愛してみたいし、愛されてみたい
と思っていました。

実家をでて一人暮らしをしていた時期もありましたが、
考え方や価値観を母に支配されていて、何か決断する時は母に相談しなければと思っていました。

しかし、どのように伝えても否定されること、
一方で成功すると「私がアドバイスしたから」と言われてしまいました。
それでもやりたいことを押し通し、自分のお金でやるからいいんだ!と
自分を納得させるものの自己肯定感が低いので何をやっても失敗することが多かった。

自分で決断しているようで、
実は全く自分で決断していなかったことにこの時は気がついていませんでした。

そこで、両親にも兄弟にも周囲にも、
「絶対に話をしない!」と覚悟を決め、
結婚相談所を探しその扉を叩きました。

私にとっては、ものすごい葛藤の日々でした。

言わなければ傷つかないと思われるかもしれませんが、
言わないと動悸や息切れ不安などが襲ってきて耐えられなくなるのです。

主人とお見合いした時もたくさんの葛藤がありました。
デートを重ねてお互いの事を徐々に理解していきました。
ただ、結婚は一番の恐怖の対象だったため、やはり不安が大きく断ろうと考えました。

そこで私は主人に正直に結婚が怖いことを白状しました。
すると、それも
「僕と結婚することが怖いのではなく、結婚自体が怖いんですよね?だったら、僕は変わらないので大丈夫です!」
と言われてしまいました。

その後、話し合いを重ねて不安や恐怖はあったものの結婚に思い切って飛び込むことにしました。
まだまだ葛藤は続き、両親の顔合わせも含め、引っ越しなどを決めている最中も「いつ逃げ出そうか?」とそればかり考えていました。

とにかく「戦場」になるのが怖かった。

不安で押しつぶされそうになっていたので、
婚姻届けを提出するのを私の誕生日まで待ってもらいました。
4月頃に出会って約1年近くになっていました。
主人は辛抱強く接してくれました。
5年間かけて主人は、私に
「大丈夫だから、香奈子さんは生きているだけでいいから。」と呪文のように私に話をしてくれました。
私がたくさん愚痴を言っても、何をしてもただ黙って話を聞いてくれる人でした。

 

新たな出会い

LMC協会に出会ったのは、2021年の8月でした。
当時、私は自宅で料理教室を開業しました。

前職は公的な機関に勤めていたため、安定的な職業を捨てての出発でした。

当初の目的は、月100万円稼ぎたい!頑張りたい!と考えていてバラ色の人生を想定していました。
開業から3ケ月はお客様がゼロに近く毎日、真っ青になりながら営業していました。

父と不仲だった母から、
「稼ぎなさい」「自立しなさい」とプレッシャーを掛けられ、
自分自身もそうならねばならないと自らに呪いをかけて生きていました。

だから、稼げない自分は価値がないと思い、成果や数字を求めていました。

主人が生活を支えてくれていることにも罪悪感があり、
「私は乞食じゃない!」と大泣きしたこともありました。

なぜ、こんなに稼ぎたいのか稼いだお金を何に使いたいのか自問自答をしていました。

また、料理教室の仕事も前職も「何故、その仕事をしているのか?」と問われることがありましたが、
自分が回答している発言の中に人に語れる情熱がないことに対して常に心がざわざわしていました
自分が何をやりたいのか?どうしたいのか?がわからなくなり思考も行動も停止してしまいました。

そのことを叶理恵さん(代表)にご相談すると、
ICCを受講して自分自身を癒してはどうかと助言していただきました。

その日に起業家の仲間だった渡辺基子講師がICCを3日後に開講することを知ったため、その場で申し込みをしました。
また、同時にライフミッション(情熱の源泉)を探したい気持ちがありTW養成講座に申しこみをしました。

ライフミッションストーリーを書く過程で内面を俯瞰したことで自分の本心がわかってきました。

私のビジョンは、
安心・安全・ポジティブな場所と本音を言っていいし、
皆で考えられ、ちがいを認め合える仲間が作りたい。

子供の時に実家が「戦場」だと感じていたのは、
本音が見えない、本音を言えない不安で危険でネガティブな場所だったこと。
また、私は個人プレー、個人主義が好きなんだと思っていたのですが、
実は皆が喜ぶことを喜びだと感じていたこと。

そのため、
「この泥船で一緒にあの島に行ってくれないか?」と説明されれば、
どのようなことでも協力したりチャレンジしたりすることができる人間なんだと。

だから、実家の状況を説明してさえくれれば
喜んでチーム家族として努力することができたのに、何も知らされていなかったこと、
両親は物を買い与えるけれど心には寄り添ってくれていなかったことが怒りのポイントで本心だったことに気がつきました。

また、私が何者であっても稼ぎがなくても何もできなくても
主人のようにありのままを受け入れてくれて、
愛して癒してくれる存在が身近にいることに気がつける
「愛され上手、受け取り上手」な人を増やしたい。


私は、家の中が不穏な空気に包まれていることになんとなく気がついていた5歳ころから
ずーっと頑張っていた私は偉かった。
偉いねって、頑張ってるねって、よく生きているねって褒めてほしかった。
周囲に大丈夫って聞いてほしかった。
ぎゅって抱きしめてほしかった。

同じように自分の人生は100%自己責任と自分の心に蓋をして神経を擦り減らしながら、
やりたいことが何なのか、
なぜ、それをしたいのか本心もわからずに必死で頑張って頑張って努力している人に、
「30%以下の自己責任で大丈夫だよ。生きててくれてありがとう。」
「結果が出せなくても、何回も失敗してもいいよ。あなたの1%の可能性を信じているから」
「あなたの未来について一緒に考えましょう」
と言葉を掛けて支え合える人を広げたい。

だから私は、私の仕事を通して、まず自分自身が掲げたビジョンを有言実行できる人になり、
私の幸せのコップを満たしていきます。

そして、
私のコップから溢れた愛で人を癒し支えて抱きしめてあげられる人になることで、
私を中心とした水の波紋のような幸せの渦を作って身近な人をどんどん巻き込んでいき、
最終的に世界中に広がるまで活動していきたい
と考えています。

私をおすすめする3つの理由

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