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私のライフミッションは
「自分の経験や学びから得た知識や情報を、多くの人にシェアして役立てたい」

その中でも、
「正しいコミュニケーションで防げるはずのネガティブな事柄によって、やりたいことからドロップアウトする人をなくしたい」ということです。

 

私は幼い頃から、なんとなくいろんなことを人並みにこなす子でした。情熱をもって「これがしたい!」というような特別なこともなく、そのためがむしゃらに努力をした覚えもない。かと言って無気力なわけでもない。

進路選択や進学先選びも、消去法。
それでも大抵のことは上手くいく、結果オーライ。そんな子どもでした。

 

高校受験では、姉がトップ校に行っていたため、同じ学校を志望。
最後の進路指導の面接で、担任の先生からギリギリ難しいかもしれないと言われ、「不合格はイヤだ」「勉強は好きだけど、今以上にはしたくない」という理由で、親が反対するのも押し切って、志望校を下げることに。

結局、入学試験の自己採点では
上の高校でも合格できる点数でした。
けれども結果的に、私はここの高校へ進学してよかった。結果オーライ。楽しい高校生活を送りましたし、今も仲のいい友達は高校の同級生が多いです。

 

わたしは中学生の頃から、
国語の先生になりたいと思っていました。
得意科目は国語と理科。数学は苦手。なのに、文理の選択では「つぶしがきく」というアドバイスのもと、理系へ進みました。

大学進学の際も、一番の進学動機は「一人暮らしがしたい」。
受験に向けて特別勉強をするつもりもありません。親からの条件は、親元を離れるのであれば、「国立」「寮がある」「手に職をつける」というものでした。

条件に当てはまる進学先はたった一つ。
その大学中から、行けそうな学科を選びました。候補は、看護学科か衛生技術学科。
両方とも理科が2科目必要だったので、理系に進んで正解、結果オーライでした。

「看護師さんなんて大変そうな仕事は、私には無理だわ~」ということで、私は臨床検査技師になるための衛生技術学科に入ります。
就職も「病院では働きたくない」「お給料がいいところ」という条件で、業界最大手の臨床検査センターへ学校推薦で就職しました。

こんな感じで、大抵のことは結果オーライに進んでいきました。

 

私が就職した検査センターは、当時の国内の遺伝子検査に関して、ほぼ独走状態。
遺伝子検査部を志望したのに、私が配属されたのは、地方の病院で働く部署でした。

ところが、一年間の新人研修を終えたとき、受け入れ先の空きがなく本社勤務に。
本社のその部署は、ブランチラボを創る部署でした。
病院の検査室を買取り、会社仕様の検査室を創るという、はじめて聞くような業務内容。検査機器を導入し、システムを構築して、運用を決めて、現地で採用した人を教育する。安定稼働したら、次の施設へ。

ゼロの状態から検査室が稼働するようになるまでのワクワク感や、
“創る・育てる”のサイクルに、私は初めて情熱をもって行動している感覚を覚えました。

自分の強みにマッチした仕事に、とても生き生きと向かっていました。
社内でも可愛がってもらい、評価も上々、同期の中で一番に昇格しました。

 

それから数年後、いくつかの病院を立ち上げてから、ある大学病院への勤務が決まりました。私の直属の上司が、その大学病院の構築から、そのまま検査室の責任者として転勤することになったのです。

「私を連れて行く。」それが、その上司が転勤を受け入れる条件でした。

短期間での検査をしながら、新検査体制の構築。即戦力が必要でした。と同時に、「今後の私のためには一度、腰を据えてメインで検査業務をする経験が必要だ」というのが上司の意見でした。

構築業務が楽しかった私は、臨床検査技師でありながら「ルーチンワークはしたくない」「病院で働きたくないから検査センターに就職したのに」と、かなりイヤイヤ。不満を抱きながらも、赴任しました。

その検査室では、お互いにフォローし合って、とてもいい人間関係に恵まれました。
あれほどイヤだった検査業務も、楽しみながらすることができました。

検査室のメンバーだけではありません。
検査センターの社員という私の立場からみるとお客様の立場に当たる、病院の職員さんや先生、看護師さんなど、プライベートでも仲良くしていただきました。

当直と当直明けの日以外は、ほぼ誰かと飲みに行っているような状態。
20年近くたった今でも連絡を取っている人もいるくらいです。

 

そんな中、私はある医療ミスをしました。

検査室の中にも、いくつか分野があります。
私は、尿一般検査という分野のリーダーをしていました。
よく知られているものでは“検尿”や“検便”、インフルエンザの検査などがあてはまります。
他の分野に比べて、緊急検査の率も低く、顕微鏡や目視でじっくり判定する項目が多い、そんな分野です。

私は、血液型の誤報告をしました。
二人の患者さんの結果を入れ替えて報告したのです。

ある患者さんから
「出産したときに言われた血液型と違うんだけど」と言われて、発覚しました。

幸い、大事には至りませんでしたが、
対患者様、対病院、対社内の関連部署へ、原因と対策のレポートを持って説明や謝罪に行きました。

患者様の「やっぱりね~!おかしいと思ったのよ~!あははは~」という、大阪のおばちゃんらしい明るい対応に助けられました。

ドクターからも、再発防止の注意と共に
「何も医療処置が行われていないから、大丈夫だから」と逆に励まされました。

上司は、自分の責任だからと、各方面へ頭を下げて回りました。

たくさんの許しとあたたかいフォローを受けました。
それにも関わらず、私はそれ以降、医療ミスをする不安からは解放されず、ずっと「怖い怖い」と思いながらを検査業務を続けました。

 

なぜそのミスが起こったのか。

私が出した答えは「私のルール違反」でした。

血液型の検査は分析器では行わず、試験管を何本も使い、ライトに照らして目で確認をする、繊細な検査です。
そのため、リストと検体の確認、結果の確認、リストから検査システムへの手入力など、二人でダブルチェックを行う決まりになっていました。

しかし、その日の担当者は、
シフトの関係で私一人。他の分野の人も忙しそうだったので、誰かを呼ぶことができませんでした。

ここが私のルール違反です。
忙しそうでも呼ばなければいけなかった。

声をかけづらい雰囲気でも、不安な人間関係でもありません。
ただ逆に、仲が良かっただけに「忙しそうだし、申し訳ない」という気持ちから、声をかけずに一人で行うという勝手な判断でした。

 

検査が怖い。
もう検査業務を続けられそうにない。
私は上司に相談すると同時に、社長へも直談判しました。

「検査業務は、私には向いていないと思います。構築チームへ戻してください。」

私を連れてきた上司は、私にこう言いました。
「医療ミスの怖さがわかったら十分だ。運用を考えるときの肝だからな。」

そして私は本社へ戻りました。
ところが、構築チームではなく、システム部。
社内では、エラー防止のための業務支援システムを作るプロジェクトが始まっていました。

一人でもダブルチェックができる血液型判定システムを作ることになり、それは全国の関連検査室へ導入されました。
「支援システムの陰の生みの親」なんていじられながらも、挽回のチャンスを与えてもらったことがありがたかったです。

そうして私は、約7年の会社員生活を送り、結婚を機に専業主婦になりました。
人間関係に恵まれ、仕事も十分に堪能した。悔いのない寿退社でした。

 

結婚後は、同じ会社にリーダーのアシスタントとして呼び戻してもらい、パート勤務をしている間に、長女を授かりました。

出産後、12年間。
専業主婦というよりもむしろ“専業育児”をしていました。

布おむつをはじめ、ベビースイミング。
レトルトや冷凍食品を使わない、手作りの食事とおやつ。
毎日1時間の絵本の読み聞かせ。幼稚園の3年間でその数2000冊。エクセルで、感想と子どもの反応などの読書記録もつけていました。

なぜ、こんなに必死になってしまったのか。

原因は、実は「おっぱい」でした。
母乳の出が悪かったのです。

当時は、母乳が一番!ミルクは悪!
という《母乳神話》の全盛期。おっぱいの出が悪い私は、自分はダメな母親だと思っていました。

私は「他の人ができている大抵のことはできる」結果オーライ人生の中で、そんな漠然とした感覚を持っていました。
そのため、自分がおっぱいの出が悪いなんて、まったく想像もしませんでした。

他の人にとっては、どうでもいいようなことが、当時の私にとっては大問題。
周りのみんなができていることが、私にはできない。こんなはずはない。自分のおっぱいの出が悪いことを認められず、娘の体重が減ってしまうまで、ミルクを足すことができませんでした。

そしてこの劣等感を埋めるように、育児にのめりこんでいきました。

 

娘は私の期待通りの“自慢の娘” に育ちました。
しっかり者で、スイミングでも学年トップの級。お勉強もよくできる、優等生になりました。

ところが、娘が小学4年生のとき。
ベテランの担任の先生にこんなことを言われました。

「この子は自信がなさ過ぎる。」

私は衝撃を受けました。
こんなに可愛くて何でもできる子が、自信がないなんて。理由が知りたくて、育児書を読み漁りました。

そして、どこを見ても書いてあるのは
「小さい頃の怒られ過ぎが原因」。

育児に熱中すればするほど、
私はとてもガミガミ怒ってばかりのお母さんになっていました。

そして、そのことに気づいてからも、
“ガミガミ”と「あ~あ、言っちゃった・・・」の繰り返し。自己嫌悪のループでした。
いつの間にか、自分が娘にとって、危険で不安でネガティブな存在になっていました。

 

そんな葛藤の中、あるコーチングの親子講座と出会います。
娘が小学5年生と6年生の間の春休みでした。

当時の娘は、自分から私立中学の受験をしたいと言い出したにも関わらず、

勉強もあまりしたくない、
週7時間のスイミングは続けたい、
塾には行かない。
その中学校へ行きたいけど受かるかどうかもわからない。

そんな、やる気も自信もない受験生でした。

それが、この親子講座を境に激変しました。
自分から最後まで粘り強く勉強するようになり、志望校に合格。新入生代表の挨拶もさせてもらえるほどでした。

自分のせいで自己肯定感が低くなってしまった娘が、自信を取り戻したことで、私は肩の荷が下りて、やっと子育ての自己嫌悪と劣等感から解放されました。

 

ところが。
ある日突然、娘は学校へ行けなくなりました。

「周りの子はすごい子ばかりで、自分がこのクラスにいるのは申し訳ない。こんな自分が好かれる訳がない。みんなが自分のことを嫌っているから、クラスには入れない。」

せっかく自信を取り戻したと思ったのに。
結局根底にある“自分のことが嫌い”という感情が爆発。反動のように、さらに落ちていきました。

私は、娘を励ましたり説得したり、なんとかして考え方が変わるように働きかけました。

「周りの子もすごいけど、あなただってすごいところもあるじゃない。」
「申し訳ないなんて、誰もそんなこと思っていないよ。」
「みんなが嫌ってるなんて、思い込みだよ。そんな訳ないじゃない。」

コーチングで学んだ「強みの視点」を持って、娘のいいところを見て、いいところを引き出そうと、たくさん言葉にしました。

親の価値観を押し付けてはいけないと思い、
娘のやりたいことを、やれるペースで支えてきたつもりでもありました。それでも全然クラスへは入れません。

私は学費のためにパートに出て疲弊していたこともあり、

「私がこんなにしんどい思いをして学費を払っているのに、何を甘ったれたこと言っているんだ!」というイライラと、

「それでもやっぱり、心から楽しい中学生生活を送ってもらいたい」
「しんどいなら一歩一歩、自分のペースでいけばいいよ」

と娘のことを思う親心が、日替わりくらいで現れてきて、とても不安定でした。

 

そんな中 私は、はっぴーぷらねっとのビジネス塾で「安心安全ポジティブな場」というものを知ります。
前向きでポジティブ言葉、笑顔で否定せずに聞く、言動の一致。

そこで気が付きました。

私は、全然、安心安全ポジティブなコミュニケーションを取れていない。

私は、娘を励ましているようで、
実は否定して、コントロールしようとしていたことに気づきました。

娘にとっては、学校も危険で不安でネガティブな環境でした。

娘は周りの状況や環境、人の気持ちの変化をとても敏感にキャッチする子です。
女子中学生特有の、しかしどこにでもあるような意地悪やからかいを、必要以上に大きく受け止めて帰ってきます。

そして「他の子が意地悪されているのを見ていられない」と感じながらも、「他の子はいいけど、自分は我慢しなきゃいけない」と思い込んでいるので、だんだん人と関わるのが億劫になっていきました。

 

私は、人生で起きることには、すべて意味があると思っています。

臨床検査技師時代の試練、子育てでの葛藤。
この出来事の本当の意味はなんだろう?

どちらもネックになっているのは、《受け取り方》でした。

検査室の同僚は、忙しい中、私にダブルチェックのために呼ばれることは、迷惑ではなかったかもしれない。
私が正しくヘルプを出していたら、あのミスは起こらなかった。

周りの最大限のフォローを正しく受け取っていれば、私は怖い怖いと思わず、
そこからドロップアウトすることもなかった。

幼少期の娘に対しても、娘のいいところ、強みを受け止めていなかった。
娘の弱音に対しても、そのままストレートに受け止めていれば、否定することもなかった。

私に起こったこれらの出来事は、
正しい受け取り方、正しいコミュニケーションで防げるはずだったのではないか。

そのことに気づき、
コミュニケーションについて学んだり、深く考えたりするようになったことが、これらのネガティブな事柄の起きた意味なのだと思います。

 

娘も、周りの状況を、
思い込みを外して正しく受け止めていれば、こんなに苦悩することもないのかもしれない。

『コミュニケーションの基本は、受け取り方だ』
私は、気づき、学び、考えるようになってから、とても楽になりました。

必要以上にイライラしたり落ち込んだりすることもないし、
いい面でとらえるようになったことで幸せを感じられるようになったと思います。

私は、自分が獲得した《正しいコミュニケーション》を伝えることで、人に貢献したい。
何かの原因で、ゆがんで受け止めてしまっている人の助けになりたい。

かつての私のように、正しく受け取ることで、防げたはずのネガティブな事柄によって、悩んだりあきらめたりする人をなくしたい。
安心安全ポジティブなコミュニケーションで結ばれた世界は、きっとあたたかい幸せを感じられる人であふれていると思います。

わたしは現在、医療や介護の現場に安心安全ポジティブな場を広げるために
『日本強み研究所』を立ち上げ、コミュニケーション研修の講師をしています。

同時に、
子どもの不登校について悩み、なんとかして学校へ戻したい、復学や再登校を希望しているママ、
子育てや、それをとりまく人間関係で上手くいかず、イライラと悩むママのために
個別セッションをしています。

もしあなたが、少しでも人間関係、コミュニケーションでしんどい思いをしていたら、わたしと一度、お話しませんか?

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